心臓病であると診断された翁。投薬をしながら日々様子を見ている状況ですが、とりあえず今のところは目立った症状もでず、調子は悪くないようなので、久々に山に行ってみることにしました。
持病があるのであれば大人しくしていたほうがという意見もあるかとは思いますが、翁が好きだと思うことをせず、ただただじっとして長生きをのみ目指すというのは、翁も本意ではなかろうと勝手に考えている自分は、症状が検査や目に見えて悪化しない限り、今までと同じように過ごさせてやりたいと思っておりますので、今後も山も歩き、大好きな車に乗って遊びにも行き、ガウガウいいながら遊ぶ事もしようと思っている次第です。
で、今回は久々の山だったので、若干軽めの曼殊院から瓜生山、石川丈山墓、波切不動尊というルートを歩いてみることに。これまた山が久々のおばちゃんも一緒です。
曼殊院の近くには、武田薬品薬用植物園という、ちょっとマニアックな施設があるのですが、そこを横切る感じで入っていくと、瓜生山へと続く登山道があります。
この登山道、結構マイナーで、尾根筋のみ比較的簡単に瓜生山に行けるのですが、マイナーゆえ案内標識などなく、麓から数本ある谷筋の道を地図など持たず進んでいくと行き止まりになり、その後無理に進むととても厳しくなったり、また迷いやすいということもあってか、週末でも人は少なく、寂しい登山道が好きなおっちゃんにとってお気に入りのルートだったりします。
なお、山歩きアプリを使うなどして最初に迷わず登山道である尾根筋を見つければ、問題なく瓜生山へといけます。
瓜生山山頂にはかつて、ぐるりを警戒できる狙いでも作られる山城があったようで、現在でもそこそこ伐採などされていることもあり、周囲は開け、眺望もあります。
また、この山頂にはかつて勝軍地蔵菩薩があり、坂上田村麻呂が蝦夷征討のときに戦勝を祈願したと伝えられているようです。(現在は麓の「禅法寺」に移設されている様子(非公開)、なおここに移設される前には、勝軍地蔵堂跡という所にあったようです。)
瓜生山山頂からは不動明王の使者である三十六童子を参りながら狸谷不動院へと降りていく道もありますが、今回は、石川丈山の弟子でもあったという白幽子の巌居蹟から石川丈山墓へと向かいます。
白幽子は江戸時代初期から中期の隠士・書家。天文や医学にも通じていたらしいです。巌居蹟は思いっきり山の中の巨岩のある場所にあり、「ホンマにこんなとこに人が住んどったんか。」と思うような辺鄙なところなんですが、まあいわゆる仙人と呼ばれるようなおっさんだったんでしょう。事実、ウィキペディアの記述では白幽子仙人、白幽仙人、白川の仙人などと呼ばれていたようです。
また、石川丈山は、庭園装飾として使われた添水(そうず=ししおどし)で有名な詩仙堂を晩年に山荘としていた、武将・文人で、煎茶の祖とも言われているようです。
そのお墓は京都を一望できるであろう場所にあるのですが、今では周りに高い木々があるがゆえに眺望はよろしくなく、墓参に訪れている人も少ない様子でとても寂しい感じです。
ここから降りていくと、波切不動尊へと出ます。
このルート、山歩きながら京都の歴史をたくさん感じられるスポットが多く、また、京の寺社仏閣の灯籠や鳥居、枯山水でおなじみの白川砂など、京の日本庭園建造を多大に担ったであろう石や砂の産地であったことから、作りかけの灯籠などが苔むして登山道横にあったりと、往時を偲ばせる物もあったりして、中々に趣が深い登山道だったりします。
そんな道であることは全く知らず、翁は久々の山歩きを堪能した様子。楽しそうに歩いた後は、はしゃいだこともあって流石にお疲れになったようで、晩御飯を食べた後ぐっすり寝まくりでした。
瓜生山に登る途中
滑落防止のロープがある
ちょっとハードな場所で
先に上がって待つ翁
はよ来なさいよ
とでも言いたげなドヤ顔!?
瓜生山山頂の歴史案内板
このあたりの花崗岩(白川砂)ができた
科学的由来、勝軍地蔵などについて書かれています
内容に興味のある方は下記をクリックして
案内板の内容を御覧ください
少しひらけているので眺望もあります
大文字山も見えます
年甲斐もなく走るおっちゃんと
それを追いかけて遊ぶ翁
建物は奥の院と呼ばれるやしろ
この裏側に勝軍地蔵が安置されていた
石室があります
えへへな翁と
京都市街
おばちゃんとえへへな翁
なお、おっちゃんとの写真では
めっちゃおもんなさそうな顔してました
よってここでは掲載しません
気持ちの良い天気でした
白幽子巌居蹟から丈山墓へと向かう時
道を間違えた先にあった
清延山茶山の由来案内板
清延山茶山の由来 - Google 検索
ただ、ネットで調べてみると、古来の文献には
清延山という記述は全くなく、
情延山のようです
総距離6kmほどでしたが
久々だったので翁同様みんな疲れました
翁~、おつかれちゃ~ん