雲母坂及び梅谷登山口から比叡山に登った際、そのルートが合流する地点にちょうど水飲対陣之跡碑があります。
碑に「水飲対陣之跡」とあるので正式にはこの名称なのですが、メジャーに呼ばれている名称は「水飲対陣跡」だったりします。自分も今まではこのブログ記事でもそう書いていました。
千日回峰の行者も使うという雲母坂ルートが一番有名で、比叡山登山においてはかなりメジャーなこの碑は、千種忠顕が、地名であるここ水飲に、陣を張ったということを表している碑です。
水飲と名付けられたのは、この碑のすぐ近くに音羽川の源流があり、そこが昔、水飲場として使われていたことから来ているようですが、由来を記述した文献などはないようです。
なお、ここの更に上方には、千種忠顕が戦死した場所を示す「千種忠顕卿戦死の地」という碑もあります。
ちなみに今回、改めて千種忠顕なる人物とは誰ぞやと軽く調べてみたのですが、
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿(大臣クラスの高官である公家)だったようです。後醍醐天皇に仕え、足利勢と戦うさなか、1336年にここ水飲で戦死したらしいのですが、明治維新後に、皇国史観の考えから、楠木正成などと一緒に再評価され、大正8年(1919年)に従二位を与えられたことから、1921年にこれらの碑が建てられたようです。
なお、上記ウィキペディアによると、淫蕩、博打にかまけていたため父から義絶(勘当)されたともありますので、武芸に秀でてはいたが、平時は碌でもない放蕩者だったようです。
改めて調べてみると、かなり政治色の強い再評価による、碑の建設が浮かび上がってきた気もする訳ですが、御本人も600年ほど後になって、こんな理由で自分の碑ができるなど、想像もつかなかったと思う次第です。
そんな水飲対陣之跡碑は、山頂848mの比叡山において、380mほどのところにあり、高さ的には半分ちょい下くらいにある感じです。雲母坂ルートは初っ端からなかなかな斜度の、結構きっついルートなので、一旦なだらかな尾根に出てしばらく平坦な道が続く、ここ水飲対陣之跡碑で、一息ついて休憩するというのが定番であったりします。
ということで、久々の山歩きオジイわんが行くには、高さ的にも距離的にも時間的にもいい感じなので、ここに行ってみることにしました。
今回は、赤山禅院近くの梅谷登山口から登りました。
梅谷登山口から入って
結構すぐのところにある
宮内庁管轄の山にあるしめ縄岩
以前から気になっているんですが
ネットで調べてもなんなのかはわからず・・・
宮内庁の進入禁止フェンスが
これを避けて後ろに行っているところを見ると
地元信仰のなんらかなのかなあ
登ってきてしばらくしたところの
落ち葉の絨毯で翁を撮影
えへへ顔からの
安定のプイッ
更に上がったところでも撮影
何見てますのん?
そして安定のプイッ・・・
木漏れ陽
冬の空気感が出ていて
なかなか幻想的かと・・・
登山道で仁王立ちの翁
お口が開いてすでにちょっとお疲れ感が・・・
登山口から少し上がったところまでは散歩で行くこともあるので、山に行くと思っていなかったからか、そこで戻ろうとした翁でしたが、そのまま登っていくのでちょっと思惑と違ったか、もしくは若干お疲れ気味だったのか、若干しんどそうでもありましたが、まあ、無理であるほどではなかったので山登りは続行。
しばらくすると翁も山歩きモードになったのか、写真のようにえへへモードで山歩き。(ただ体温が上がった口を開けているだけともいえますが)山頂までいかないことにして正解だったなと思いつつ、更に歩みを進めて水飲対陣之跡碑へと向かいました。
つづく
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