はてなブログ、今週のお題「人生最大のピンチ」。今回は、僕が10数年前に遭った「死にかけた事故」について書いてみたいと思います。
注釈:この時、僕はある国で、ある競技の国際大会に参加していました。この競技はゴールが遠くにあるので、終了後、車で大会本部まで選手を送ってくれるのですが、この国の送迎用の車は、バスではなく、軍用トラックの荷台に作られた長椅子に座って帰るという、荒々しいものでした。
<以下、当時の日記から記事にしました>
軍用トラックに回収された僕らは、大会本部へと向かった。ある町で停車した際、東欧勢はここにあった売店でビールをしこたま仕入れ、いつものようにあおりまくっていた。フランスチームはトラックに荷物を残し、自分たちのバンで一足先に帰っていった。
「いいなあ、俺もあれで帰りたい・・・。」何故かその時、僕はいつもないくらい強くそう思った。今思えば、それは虫の知らせだったのだろうか・・・。
ただ、僕の嫌な感じは気のせいだったか、車は順調に国道を走り、大会本部がある村に入る細い道へと入っていく場所までやってきた。
「もう少しで着くなあ・・・。細い道に入るからスピードも落ちて、きつかった荷台に吹き込む風も弱くなるな。」と、ホッとしていたのだが、何故かその道に入っても、トラックのスピードはあまり落ちない。
40kmくらいは出ていただろうか。
「こんなスピードで対向車が来たりしたら、どうするんだろう?」などと思っていた時、目線の先には対向車ではなく、急なカーブが見えてきた。しかし、車はスピードを落とす事なくそのまま走っている。
この瞬間から、僕の目に見える世界はまるでジョン・ウーの映画の一シーンのように、スローモーションになっていった。「これはヤバイ!間違いなく事故る!!」
車はブレーキをかけながら、ハンドルを切る。しかし、完全に遅すぎる。
「キキュキュキューーーッ!!」
タイヤは悲鳴を上げながら横に滑った。カーブは、もうすぐそこに見えていた。
そのカーブの先には結構な段差があった。その下は畑だ。
「落ちるっ!!」そう思った僕は膝を抱えるような体勢を取り、トラックの荷台中央に向かって体を投げ出した。
車がふわっと浮いた感覚がして、体はさかさまになり、視界は真っ暗になった。
・・・・・。
気づくと僕の体は団子虫のような形でさかさまになり、目を開けているのに何も見えることはなかった。車は完全に転覆して、僕はその下敷きになっていたのである。
僕らはこの下に閉じ込められていた
ただ、転覆した瞬間は、僕はどうなったかをしっかりと把握していなかった。一瞬死んだのかと思ったが、背中の苦しさを感じるのでどうやら死んではいないようだ。
僕はひっくり返った状態で、頭を下にし、足を上げる形で太ももを胸につけるような体勢で下敷きになっていた。まわりには荷物がギューギューにつまっていて身動きが取れない。
とりあえず、即死でも重症でもなかった。が、かなり息苦しい。更に荷台が下に落ちてくるようなことがあれば、僕の背骨は折れるかもしれない。
そう考えた僕は、改めて死の恐怖を感じ戦慄した。
なお周りでは、同じ様な恐怖を感じたのか、閉所恐怖症なのか、選手の一部がパニックに陥っていた。「助けてくれ!!」とか、神に救いを請う叫びが、そこかしこで聞こえてきた。
とりあえず僕は、体の向きを変えることにした。近くにいた奴に、荷物を動かしてくれるように頼んで、自分でも動かし、とりあえず激しく屈曲した体勢から、うつぶせの体勢になることに成功した。
暗闇に目も慣れ、様子をうかがうことができるようになって見てみると、どうやらこれ以上荷台が落ちてくることはなさそうだった。荷台の横にある仕切りが、荷物の上に乗っかっている事で、ある程度の隙間が確保されていた。
僕は自分のラッキーさに感謝した。もしあの隙間がなかったら、転覆時に背骨がボキッといって即死していたかもしれない。
とりあえずこれから死ぬようなことにはならなさそうだったので、とりあえず安堵した。
ただ、自分はラッキーだったが、目の前に超アンラッキーな選手がいるのが飛び込んできた。なんと荷台の仕切りの下敷きになっている選手がいたのである。
彼はおなかと太ももの部分を圧迫され、痛みと、息苦しさにパニックに陥り、泣きながら助けを求めていた。
外側から馬鹿な誰かが引っ張ろうとしたが、当然出るはずはないし、そんなことをすれば彼の命が危険にさらされる可能性もある。その時点ではとりあえず、腰周りで骨折をしている可能性が非常に高かったのだ。
僕らはその馬鹿を制し、荷台にてこをかまして上げるように指示した。しかし、てこになるいい材料がない上に、人も少なくて上げられない。そこで僕は、同じく閉じ込められていた選手らと相談して、畑の土を掘って彼の背中の下に空間を作ることにした。
外からも掘り、そして中からは僕らが手を使って掘りまくり、彼の体の下には少し隙間が出来た。とりあえず、彼の呼吸確保と体の圧迫を緩めることができた。
そして更に掘り進んだ後、彼はゆっくりと外に出され、やってきた救急車に乗って病院へ向かった。
その後僕らは、その掘った穴から、外へ引きずり出してもらった。閉所恐怖症の選手や、事故でショックを受けている選手がほとんどだったので、彼らを先に出し、僕はラストに外に出た。
外には既に警官や、たくさんの見学者、そして大会オフィシャルが用意していた救急車がやって来ていた。
とりあえず友達の選手と無事を祝って握手をした。僕は、大好きだったおばあちゃんとおかんが、僕を助けてくれたのだろうと感じていた。
なお、明らかに無謀な運転による過失事故であるにもかかわらず、その国の事故対応はとてつもなくいい加減だった。警察は特に捜査をする訳でもなく、また運転手は逮捕される事もなく、救急車も全員を病院に連れて行くことなく、簡単な問診だけで処理をしていた。
更に驚くべき事に、こんな凄い転覆事故だったにもかかわらず、下敷きになった選手以外は、閉じ込められた7名と、転覆する前に飛び降りた数名の全てが、軽い打撲か擦り傷で済んでいた事だった。僕は左のふくらはぎを転覆時に荷台の椅子の鉄棒でしたたかに打ったらしく大きく腫らしていたが、幸い骨折にまでは達していなかった。
なお翌日、救急車に乗っていった下敷きになった彼も、打撲以外は骨折もなかったことが判明した。
ひどい事故だったが幸い僕らは誰も深刻な怪我をすることはなかったのだ。みんな奇跡が起こったと思った。
軍用トラックには2度と乗りたくないなと思いながら、僕は普通のバンに乗っけてもらって本部へ戻った。そしてホームステイ先の家に帰ったあとは、「大事故にあった日本人を見るために」近所の人が見学に来のだった。
日頃事故など起こらない田舎の村で起こった、数年に一度のすんごい事故に会い奇跡的に助かった男として、注目の的になっていたのである。
ただ、当然のことではあるが僕は精神的に非常に疲れていた。自分の無事を改めて噛み締めると、逆にもしかしたら死んでいたかもしれないと言う恐怖がヒシヒシと押し寄せてきた。
僕はその恐怖から逃れる為にも、また、体がドロドロに疲れながらも頭はすっかり覚めているという異常な状況をなんとかする為にも、早めに床について体を休めることにした。
しかし、その頃にはふくらはぎの痛みは半端な状況ではなくなっていた。風呂場で相当な時間水をかけ冷やしたのであるが、そんなことで回復するような打撲ではなかった。
とりあえず僕は、その程度で済んで良かったじゃないかと自分を慰めた。おばあちゃんとおかんがきっと俺を守ってくれたのだと・・・。
「けど、守るんやったらふくらはぎもなんともならんようにしてくれたらよかったやんけ、おかん!」と心で悪態をついたりしながら・・・。
「明日、競技に参加できるかな。」と少し不安になったり、色々なことを考えているうち、僕は深い眠りに落ちていった。
この後トラックにワイヤーをかけ
パワープレイでぐるんとひっくり返した
一応警官が現場検証。
僕らが助かった一因だと思う
ということで、人生最大のピンチというほどでもないですが、死にかけはした話しです。ちなみに、自分は次の日も足の痛みはあったものの競技はキャンセルせず出場しました。
精神的ダメージを受け、キャンセルした選手も結構いたらしいんですけど、自分はそんな事全然思いもしませんでした。いやあ、若かったなあ・・・。
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